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クインシー・ディライト・ジョーンズ二世(Quincy Delight Jones II、1933年3月14日 - )は、アメリカ合衆国の音楽プロデューサー、作曲家。1950年代から第一線で活躍を続け、グラミー賞をはじめとする音楽賞を多数受賞している。ブラックミュージック界のみならず、アメリカのポピュラー音楽界における偉人の一人である。また、米FOXテレビの人気コメディ番組MADtvの製作総指揮も担当している。 == 来歴 == イリノイ州シカゴ出身。少年時代にトランペットを学ぶ。10歳の頃にワシントン州に転居。そこで盲目のピアノ・プレーヤーの少年レイ・チャールズと知り合い、ともにバンド活動を始める。1951年、バークリー音楽大学を卒業後、トランペット・プレーヤーとしてライオネル・ハンプトン楽団に参加。そこでアレンジャーとしての才能を見出され、カウント・ベイシー、デューク・エリントン、サラ・ヴォーンらジャズ界のスターのアレンジを手がけるようになった。 1957年にパリへ渡り、作曲・音楽理論などを学ぶ。フランスのマーキュリー・レコード社長の知己を得てヨーロッパでも数々のビッグバンドを率いて活躍し、自身のバンドでも成功を収めた。1964年には、マーキュリー・レコードニューヨーク支社の副支社長となり、同時に映画音楽の分野へも活動の幅を広げる。アメリカ国民なら必ず知っているテレビ映画『ルーツ』のサウンドトラックを手がける。 1960年代からはプロデューサーとしても活躍し始め、1963年にレスリー・ゴーアの「涙のバースデイ・パーティー」をビルボード1位にしたのをはじめ、マイルス・デイヴィス、フランク・シナトラらのプロデュースを手がける。自身の作品でも数々の名作を残し、チャズ・ジャンケルの1979年録音のアルバム『愛のコリーダ』(原題"CHAZ JANKEL")に収緑のカヴァーである、1981年の「愛のコリーダ」(タイトルの由来は、大島渚監督の同名映画から)のようなポップ分野でのヒットも生んだ。 1978年、映画The Wizの現場でマイケル・ジャクソンと出会う。そこでマイケルが「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「僕じゃ駄目かな?」とクインシーが返答したという逸話が残っている。そうして翌年のアルバムOff The Wallでタッグを組むことになる〔。 1982年のアルバム『Thriller』のセールスはギネス・ワールド・レコーズに史上最も売れたアルバムとして認定され、その地位は不動のものとなっている〔。同年、自主レーベルクウェスト・レコードを設立、1985年までA&Mレコードが供給したが、後にワーナー・ブラザーズ・レコードに売却される。また同年には、アメリカのスーパースターが一堂に会して録音したチャリティー曲「We are the World」のプロデュースも手がけた。 1987年のアルバム『Bad』も同一アルバムからのシングルカットが5つのナンバーワンヒットという快挙を成し遂げた〔。なお、このアルバムを最後にマイケル・ジャクソンとのタッグを解消する。 1990年代のクラブ・シーンでは、1960年代のファンキーなジャズ作品が再評価され、「ソウル・ボサ・ノヴァ」は教典的存在となり、映画『オースティン・パワーズ』のテーマ曲としても使用された。日本では、同曲がモード学園のCMソングに使われていた他、テレビ番組『ウイークエンダー』のジングルとして使われた『鬼警部アイアンサイド』のテーマも有名である。 1999年、クインシー、ボブ・ゲルドフ、U2のボノが中心になって、マイケル・ジャクソン、マドンナ、スティング、ポール・マッカートニーほか多数のミュージシャンがサポートした世界の貧困救済を唱えるジュビリー2000の運動に参加した(2005年のチャリティ・コンサートLIVE 8へと発展していった)。 2003年、クインシー・ジョーンズ生誕70周年ベストアルバムがリリースされる。 2007年に、2008年度のグラミー賞レコーディングアカデミー50回大記念の大使に任命された。「現在18,000ものミュージックメーカーで構成されたグラミー賞の創始者の一人として誇りに感じている」とコメントし、50周年を祝う数々のセレモニーを企画している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クインシー・ジョーンズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Quincy Jones 」があります。 スポンサード リンク
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